映画「大河への道」

志の輔さんの新作落語「大河への道」が映画化されたので見に行く。

面白く拝見した。

伊能忠敬の死後、地図を完成させようとして奮闘した測量隊の伊能隊の面々と

それをなんとかかなえようとした天文方高橋景保など、

あまり知られていない市井の人たちの決意や覚悟に焦点を当てている。

 

 

失われゆく時代劇の手法をなんとか残したいと新しい時代劇を模索していた

中井貴一が、志の輔さんの高座を見てぜひにということから始まった企画とのこと。

それらのエピソードがなくとも、よくできた映画ではある。

現代と過去を行き来しながらダブルキャストになるなどの仕掛けもあり

また女優陣の今風の着物や帯結びもちょっとした楽しみでもある。

気になったのは、何番目かの伊能の内縁の妻、栄だろうか。

当時の女性としては珍しく漢籍を学んだ女性で手蹟も立派、

地図作成の折には尽力したという。

この時代にしては自由に生きた才媛だろうが、映画版は少し粋な風情で

女だてらに学問をした、という点が伝わったのかどうか。

 

 

とはいえ、笑いあり涙ありと。

十分に堪能し、また落語「大河への道」を聞きたくなった。

小説化もされ漫画版も出ているとか。

伊能忠敬大河ドラマ、本当にそのうちに実現するのかな?

などとひっそりと考えている。

 

 

 

三十石

米朝さんのCDで聞いてから、三十石はとても好きな噺のひとつ。

TVの「日本の話芸」で桂春若さんがかけるというので聞いてみる。

ご本人はこの噺を先代の文枝さんに教わったとのことだったが

舟の櫓の漕ぎ方は、談志さんにも教えてもらったとのこと。

 

 

 

この噺だけでなく、船に乗る噺がどうしてだか好きである。

談春さんの九州吹き戻しもそうだが、その当時の風俗が描写されて

さしずめ、ある情景を切り取るのが浮世絵なら、

こういった噺は絵巻物かな、と思う。

次々と情景が移り変わり、やがてその道中のあれこれが

くだらないことやしょうもないことも含めて

なんともいえない情感とともに描かれる。

舟唄もいいし、上方落語らしい音曲もいい。

岸辺から行き先を尋ね、ちゃっかりと船頭に土産をねだるおなごし(女中)さん

やら、それを軽くいなす船頭やら、とテンポもいい。

知らぬ土地を旅している気分になる。

 

 

 

筋がわかりやすく、起承転結のはっきりした人情噺もいいけれど。

こういう絵巻物を眺めるような楽しさもあっていい。

話芸ではこんな楽しみ方も、と思う今日この頃。

 

 

三十石

米朝さんのCDで聞いてから、三十石はとても好きな噺のひとつ。

TVの「日本の話芸」で桂春若さんがかけるというので聞いてみる。

ご本人はこの噺を先代の文枝さんに教わったとのことだったが

舟の櫓の漕ぎ方は、談志さんにも教えてもらったとのこと。

 

 

 

この噺だけでなく、船に乗る噺がどうしてだか好きである。

談春さんの九州吹き戻しもそうだが、その当時の風俗が描写されて

さしずめ、ある情景を切り取るのが浮世絵なら、

こういった噺は絵巻物かな、と思う。

次々と情景が移り変わり、やがてその道中のあれこれが

くだらないことやしょうもないことも含めて

なんともいえない情感とともに描かれる。

舟唄もいいし、上方落語らしい音曲もいい。

岸辺から行き先を尋ね、ちゃっかりと船頭に土産をねだるおなごし(女中)さん

やら、それを軽くいなす船頭やら、とテンポもいい。

知らぬ土地を旅している気分になる。

 

 

 

筋がわかりやすく、起承転結のはっきりした人情噺もいいけれど。

こういう絵巻物を眺めるような楽しさもあっていい。

話芸ではこんな楽しみ方も、と思う今日この頃。

 

 

長期化

ウクライナの紛争はコロナ同様長くかかるというのが大方の見方のようだが。

どちらも引かない(引けない)、という膠着状況が続き

まるで19世紀のような、と形容される紛争に、

21世紀的なスマートな着地点があるのかどうか。

経済が分かちがたくつながる世界で、これもコロナ同様

混乱から無縁でいられる国も多くはなく、

また中立というスタンスが許されない情勢の中、

既に世界中を巻き込んでしまっている、という説も。

 

 

「ズームバック×オチアイ”新しい戦争”のその先へ」を興味深く見た。

今回の侵攻の前からの両国の報道の偏向、

言葉の力を駆使するウクライナの情報戦略、

最後にこの、ますます広がる分断を超える方法は、とポイントもよい。

ただ、ウクライナへのスターリンクのサービスの提供の話は

その前段・・・ロシアが老朽化した自国の衛星を打ち落とす実験を強行したことと

ロシア国営宇宙開発事業の社長の恫喝めいたツイートに、

やんちゃなイーロンが受けて立ったこと・・

と一連の流れで伝えるべきなのでは、という気もしたのだが

話が拡散しすぎるのを避けたのかもしれない。

 

 

マスメディアにSNSというものが加わったのと同様に

アメリカの私企業の技術力と資金力、情報発信力とある種の自由度は

物事をさらに複雑にしていくともいえるのだろうが。

中国のように国家が私企業を強力に統制しようとして技術開発を失速させるのと

国家の枠さえ超える巨大IT企業に国の力が後手になって及ばないのと。

 

 

さて、日本の国営放送の番組をもう一つ。

鏑木清方の展覧会とともに彼の画業を紹介する番組がなかなかよくて

繰り返してみてみる。

絵のスタイルを確立することにつながる泉鏡花の本の挿絵の仕事をはじめ

参照することになった江戸期の浮世絵、彼の技法と、とても参考になる。

第2次大戦中、空襲警報がなると意地になって絵筆を握った、という

エピソードを自ら語ることにも、

庶民の風俗や季節感を画題とし、市井の一絵描きを自称して過ごした生涯も

画と相まって、なるほどと思えてくる。

 

 

先の見えない状況、そして今だに進行中の悲惨な国際紛争

資源価格の上昇と多くの消費財の値上がりという形で

遠く離れた日本での生活を直撃し、景気を失速させる。

そしてこの国が紛争当事国と領土問題を抱えるという

国防上の問題に目が行くと、ことは経済だけではすまなくなる。

操作された情報が飛び交う多面的な事象で

不安のあまり逐次情報を追いかけ続けると、確実に疲弊してしまう。

落合氏は柳宗悦を参照して、日常の生活を淡々と続けることが大切といっており

氏はアーティストでもあったな、と思う。

情報に関しては、あえて時間を置いて

ある程度まとまった質の良い情報を参照すること、くらいだろうか。

 

 

自分の好きなものしか描かなかった清方は

晩年は自分の子供のころの、失われゆく明治の風俗をこのんで描いた。

自分も、年のせいかこのところ過去に目がいく。

私が惜しんで描くとしたら、一体それは何になるのだろうか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

志の輔noにぎわい

にぎわい座の20周年記念公演の第2弾に出かける。

寄席形式だからトリに志の輔さんが一席かしら、とおっとりと

出かけると開口一番からご本尊が登場。

どこぞの国の紛争騒ぎをマクラに、隣家のタケノコの越境という

ほのぼのした話で始まる。

ついで、国連と先進国の会議をもってしてもという話から

マンションのなにも決まらない理事会の新作へと続く。

中入り後は、おなじみの鉄九郎さんのユニットの長唄三味線。

そして最後は古典の帯九でたっぷりと、という充実の内容。

 

 

志の輔:たけのこ(新作)

志の輔:異議なし!(新作)

仲入り

鉄九郎一座:長唄五連者

志の輔:帯九

 

 

志の輔さんが司会を勤める長寿番組が打ち切りとなり

思い入れもあってか、当人もがっかりしていたという話しも聞く。

ファンからすれば、いっそ落語に専念できるからいいのでは

という声もあるのだが、落語以外に創意工夫をする番組も

ひとつ力を入れていた様子でもあり。

 

 

考えてみれば入門後すぐに、師匠の談志さんが落語協会をやめて

ことあるごとに「立川流になって初の弟子」ということで

背負わなくてもいいプレッシャーにさらされてきた、と思う。

ちょっとしたコメントにも周到な配慮がのぞくあたりは、

毒舌ぞろいの一門の中でも、立場がにじんでいる

といったら穿ちすぎだろうか。

ご本人は、その中で修行の場所からして自分で開拓しながら

試行錯誤をかさね、新作を始め古典も独自の工夫で作りかえ、

現代的でわかりやすい「志の輔らくご」というスタイルを確立する。

それにあきたらず演劇的な空間表現を取り入れたパルコ公演は

落語界初の1か月ロングラン公演となり、

話題を集めるだけでなく恒例化し・・と

人気も実力も、古典も新作も、という売れっ子になって現在に至る。

 

 

ひとつ、手のかかる番組を終え、時間が多少できたからには

ぜひ違う形での志の輔らくごの進化形を、と望むのは

まあファンの勝手なのだろうが。

演劇的な要素とはまた違った形での要素をプラスして。

よい出会いがあれば、それによってまた志の輔らくごも

まだまだ進化していく。

 

 

三本締めで会が締まって席を立つと、「やっぱり古典がいいよなあ」

という声が聞こえてくる。

(映画を見ているような気分になれる大作なら、私は新作でもいいけれど)

心の中でつぶやいて、やっぱりファンというのは勝手な期待を

するものだから、と。

堪能、充実の会を終えて、横浜をあとにする。

 

 

予告編

NHKの「欲望の資本主義」を見返していて

パンデミックはこれからの社会で起きることのある種の予告編だ、

というセドラチェクと斎藤幸平の対話を聞いていて

なかなか予言的だった、と思う。

 

 

とはいえ、日常生活は淡々と(外的事情に振り回されながらも)

続くことになり、

(その昔、全共闘全盛期に東大にいた橋本治

 「江戸に疎開していました」と明言を残したが)

落語国にしばしの疎開、と落語会にでかける。

 

 

横浜の公設の寄席での談春さんの会。

この寄席ができて20周年、その記念公演とのことだったが、

市長が変わり逆風が吹いている、という。

のちに関係者に会う機会があったが、文化よりもかける先がある

とのことで予算が随分削られた、とのこと。

 

 

談春さんのマクラ、というか噺の後の雑談では

ウクライナ情勢を今の落語界の勢力図になぞらえて

爆笑を誘っていたが。

立川流も某国もこのままではじり貧になり20年後はない、

という危機感はそれとして、

育成に15年はかかる新弟子のお披露目があったことからすると、

それなりの考えはあるのだろう。

 

 

考えてみれば15年もかけて育ててもらえることを

ありがたいと感じるか、そんな悠長では話にならないと思うのか。

ゆっくり育てられるほうが、しっかりしたものになる

という一般論の傍ら、時期を逃すと成長が頭打ちになる

ということもあり。

 

 

この日の演目は、ここで20年前に談志さんとの親子会で披露した演目

とのことだったが。

でてくる男は皆最低、という思いが、下げの一言で反転し

笑いに変わるさまは、見事。

 

 

春次郎:十徳

談春:包丁

仲入り

談春明烏

 

 

好きなものに触れられる、ことの幸福を

あらためてかみしめる。

 

人新世の資本論

毎日のように理不尽な戦火の映像が流れて、気分が沈む中、

話題の書を、今頃ようやく読む。

世間一般の人からすれば、マルクス資本論コミュニズム

ああはなりたくない、という国々の制度でしかなく

ここにはマルクスの晩年の思想とその新解釈があり

それなりの説得力をもつのだが、いかにも分が悪いかもしれない。

 

 

自由に慣れて、資本主義にどっぷり浸った世の中が

それほど簡単にはかわることもないだろう。

とはいえ、気候変動で激甚化する自然災害や

温暖化による植物相の変化と作物の高騰などなど身近な話題も多く

今、行動しなければ将来世代どころか

現役世代でもかなりの不都合が生じる、ということは

うっすらと共通理解もできてきている、ということか。

 

 

日々の生活や仕事に追われ、現状の社会の前提、成り立ちについて

考えなおすことなく、”ライフハック”といった、いかに現状の社会に適応して

うまくやるか、という目先のテクニックばかりが溢れている。

本来はもっと大きな視点での考えが必要なはずなのだが。

 

 

コロナ禍と、それに伴うテレワークの普及でごく一部の人は通勤から解放され

浮いた時間で、何が自分に取って大切かといった本質的なことを

考えはじめ、sれにより行動を変えた人もいるかもしれない。

とはいえ、多くの人は、相変わらず目の前の生活と大量の情報に追われて、

常識を疑ったり、その前提をはずして考えてみるということに

思いがおよばずにいる。

(というよりも、慣れた常識の中にいるほうが居心地がいい)

これは自分にしても同様で、少しの間、時間に恵まれた生活をしていたにも

かかわらず、それをうまく生かすこともできずにいた。

 

 

桜の季節が廻ってくる。

芽吹く春がくるというのに、何百万の人が家を、国を追われている。

あらゆることがグローバルにつながる社会で。

何からどう、と戸惑いつつ。