リウーを待ちながら を読む

たまたま手にして、一気読みの後も何回か読み返している。

コロナの騒ぎが無くとも、読みごたえがあるとして

強く印象に残っただろう。

感染症との闘いは、日々の闘いに負け続ける中で、

人として人に対して誠実であろうとする

とんでもなく大変なことなのだ、ということが門外漢の人間にも知れる。

あまりにも予見的で、それが恐ろしくもあるが

感染症が蔓延したら、おそらくたどる経過と取れる手段は

限られており、それがこのようなものだ、ということになろうか。

 

 

コロナ以降、あるいは、ウクライナ紛争以降

世界は、人間は進歩していき、らせん状にせよ過去よりはよくなっていく、

という楽観的な未来がどうにも、決定的に信じにくくなった。

あまりに性急に答えを求めることも、対処すべきことに

なにもかも捨てて注力することも、燃え尽きるだけになり

得策ではない、という。

 

 

自分がコントロールできることとできないことを見極めよ、とか、

しぶとくあきらめずに、なんとか続ける、続けることを日常にということなのか。

持続可能な、絶望に慣れないでいる方法。

 

 

カミユの「ペスト」を、今更だけど私も読んでみようと思う。

 

 

 

 

リウーを待ちながら を読む

たまたま手にして、一気読みの後も何回か読み返している。

コロナの騒ぎが無くとも、読みごたえがあるとして

強く印象に残っただろう。

感染症との闘いは、日々の闘いに負け続ける中で、

人として人に対して誠実であろうとする

とんでもなく大変なことなのだ、ということが門外漢の人間にも知れる。

あまりにも予見的で、それが恐ろしくもあるが

感染症が蔓延したら、おそらくたどる経過と取れる手段は

限られており、それがこのようなものだ、ということになろうか。

 

 

コロナ以降、あるいは、ウクライナ紛争以降

世界は、人間は進歩していき、らせん状にせよ過去よりはよくなっていく、

という楽観的な未来がどうにも、決定的に信じにくくなった。

あまりに性急に答えを求めることも、対処すべきことに

なにもかも捨てて注力することも、燃え尽きるだけになり

得策ではない、という。

 

 

自分がコントロールできることとできないことを見極めよ、とか、

しぶとくあきらめずに、なんとか続ける、続けることを日常にということなのか。

持続可能な、絶望に慣れないでいる方法。

 

 

カミユの「ペスト」を、今更だけど私も読んでみようと思う。

 

 

 

 

あさのあつこ「バッテリー」

映画化だか映像化だかされて、主人公の名前を呼ぶ

その合い方の男の子の高い声をなんだか覚えている。

見たわけではない、なにか予告編とか、短い時間見ただけなのだか。

声のトーンだったか言い方が、好きではなかった。

 

 

読み始めて、面白い。

2巻目から全巻固めて手元に置いたら

ああ、まずいなあ、このまま完徹してでも読み終わるまで止まらない

パターンか、と。

さすがに夜更かしは止めているので、それはしないのだが

読み終わるまでは他のことへの注意力が多少低下する。

頭のある一定領域を常に使用している感じ。よろしくない。

昔から本を読み始めると時間が蒸発する。周囲の物事が消える。

とはいえ、早々に、相当面白い本に限る、とはなったのだけれど。

(まあ、生きていくためには必要だろう)

 

 

やれやれ。

いくつになっても、出会うことはある。

そういえば数年前に「精霊の守り人たち」を読んだ時もそうだった。

それが楽しくもあり面倒でもあり。

しばらく、この作者の作品含めて読む本には困らないだろう。

読書の秋、も近いことだし、ね。

 

 

 

 

夏の終わりにジュブナイル小説を

永遠に、この記録的な暑さが続くように思われたのが嘘のように

まるでこのまま秋になるかのような気配の今日この頃。

朝晩が涼しいのは本当に助かる。

日差し自体が凶器のようで、日が落ちるのを待って外出していたことを思えば

ありがたい限りだ。

そんな折、夏休みの宿題のラストスパートみたいに、

少年少女向けの本(ジュブナイル)を固めて読んでいる。

 

 

子どもから大人になる思春期に

この世の中で生きていくための大切な何かを誰かのもとで学ぶ

いつもと違う場所での出会いや体験、旅立ち、

そういった風情の物語ばかりを。

 

 

 

それに加えて、夢組とかなえ組の言葉を聞いたセミナーで教えててもらった種本。

これも今頃になって。

当時は、他人の欲に心底うんざりしたあとだったので

どうしても読む気がしなかったのだが、予想していたものとはずいぶん違っていた。

これを読むと、世の中に出ていく若い時だけでなく

誰と一緒に、どんなことを選びとっていくか、そんなことは

生涯続く旅のようなものだ、と思えてくる。

ライフサイクルに応じて選ぶものも違ってくるだろうし

一度選んだものがちょっと違ってきたということもあるかもしれない。

 

 

 

旅、にちなんで、また少し伊能忠敬のことを考えていた。

志の輔さんの小説版「大河への道」には伊能は無念だったのでは

という脚本家のフレーズが出てくる。

でも、これにはあまり納得がいかなかった。

日本地図を完成させることだけが望みなら、あれほど時間をかけて

内陸部までの測量をしたのかな、ということと

なにより、彼のような実務家は仕事のやり方が工房方式というかチーム制で

自分がいなくてもある程度回るように作られていただろうから、ということ。

(それでもなんでも自分でやらないと気がすまなかったようではあるが)

それに加えて、何代か続く地元の名士に婿養子としてはいったことから

「継承する」ということがきちんとわかっていたのでは、という気がしたから。

一説に、何代も続く名家では、当主は自分の代で財産を減らすわけにいかない

という(一代で財を築いた富裕層とは違う)プレッシャーにさらされる、という。

その家の長い歴史を紐解きながら自分の役割を考えるだろうし、

オーナー社長とはいえ、家業も財産も預かりもので、できれば大きくはしたいが

いずれはなるべくいい形で次世代に継承するものだと考える。

そのための組織作りやら、後継者を育てることなどなど、そこは周到に

抜かりなく、それも大切な務めだと信じて。

そういう人だったら、困難の予想される(そして専門家としての自負のある)

測量をまずはきっちりすべて終える。

地図の作成は(自分が生きているうちに)間に合わなければ後に託す、

そのくらいは考えていたのでは、と。

なにしろはじめたのが高齢だったこともある。残り時間は考えていただろう。

そりゃあ、地図は成果物だから完成させたかっただろうけれど、

名誉も賞賛も、その時には既に得てはいたのだから。

 

 

周到に次代に託した佐原の家は、後継者の息子が自分より早くに亡くなる

という不幸にも見舞われる。

でももうバトンは渡してしまって、自分の手を離れたら

それはもう、それだけのことだろう。

名経営者といわれた人が、後継指名して会長に退いて

うまく行かないからと社長に返り咲く(代表権を再度持つ)こともあるが

そういうのはねえ、などと思いつつ。

 

 

まだ残っている「課題図書」を、

酷暑の和らいだこの機会に、せっせと読むことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の終わりにジュブナイル小説を

永遠に、この記録的な暑さが続くように思われたのが嘘のように

まるでこのまま秋になるかのような気配の今日この頃。

朝晩が涼しいのは本当に助かる。

日差し自体が凶器のようで、日が落ちるのを待って外出していたことを思えば

ありがたい限りだ。

そんな折、夏休みの宿題のラストスパートみたいに、

少年少女向けの本(ジュブナイル)を固めて読んでいる。

 

 

子どもから大人になる思春期に

この世の中で生きていくための大切な何かを誰かのもとで学ぶ

いつもと違う場所での出会いや体験、旅立ち、

そういった風情の物語ばかりを。

 

 

 

それに加えて、夢組とかなえ組の言葉を聞いたセミナーで教えててもらった種本。

これも今頃になって。

当時は、他人の欲に振り回されることに心底うんざりしたあとだったので

どうしても読む気がしなかったのだが、予想していたものとはずいぶん違っていた。

これを読むと、世の中に出ていく若い時だけでなく

誰と一緒に、どんなことを選びとっていくか、そんなことは

生涯続く旅のようなものだ、と思えてくる。

ライフサイクルに応じて選ぶものも違ってくるだろうし

一度選んだものがちょっと違ってきたということもあるかもしれない。

 

 

 

旅、にちなんで、また少し伊能忠敬のことを考えていた。

志の輔さんの小説版「大河への道」には伊能は無念だったのでは

という脚本家のフレーズが出てくる。

でも、これにはあまり納得がいかなかった。

日本地図を完成させることだけが望みなら、あれほど時間をかけて

内陸部までの測量をしたのかな、ということと

なにより、彼のような実務家は仕事のやり方が工房方式というかチーム制で

自分がいなくてもある程度回るように作られていただろうから、ということ。

(それでもなんでも自分でやらないと気がすまなかったようではあるが)

それに加えて、何代か続く地元の名士に婿養子としてはいったことから

「継承する」ということがきちんとわかっていたのでは、という気がしたから。

一説に、何代も続く名家では、当主は自分の代で財産を減らすわけにいかない

という(一代で財を築いた富裕層とは違う)プレッシャーにさらされる、という。

その家の長い歴史を紐解きながら自分の役割を考えるだろうし、

オーナー社長とはいえ、家業も財産も預かりもので、できれば大きくはしたいが

いずれはなるべくいい形で次世代に継承するものだと考える。

そのための組織作りやら、後継者を育てることなどなど、そこは周到に

抜かりなく、それも大切な務めだと信じて。

そういう人だったら、困難の予想される(そして専門家としての自負のある)

測量をまずはきっちりすべて終える。

地図の作成は(自分が生きているうちに)間に合わなければ後に託す、

そのくらいは考えていたのでは、と。

なにしろはじめたのが高齢だったこともある。残り時間は考えていただろう。

そりゃあ、地図は成果物だから完成させたかっただろうけれど、

名誉も賞賛も、その時には既に得てはいたのだから。

 

 

周到に次代に託した佐原の家は、後継者の息子が自分より早くに亡くなる

という不幸にも見舞われる。

でももうバトンは渡してしまって、自分の手を離れたら

それはもう、それだけのことだろう。

名経営者といわれた人が、後継指名して会長に退いて

うまく行かないからと社長に返り咲く(代表権を再度持つ)こともあるが

そういうのはねえ、などと思いつつ。

 

 

まだ残っている「課題図書」を、

酷暑の和らいだこの機会に、せっせと読むことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説「大河への道」を読んで

志の輔さんの小説版「大河への道」を読む。

私自身、耳で聞く人というよりは、目で読む人の傾向が強いので

活字を追うことで、いろいろ改めて腑に落ちたことがある。

 

 

伊能忠敬の人となり、地球の大きさを実測と理論値から推計する

という目的を達した後も、どうしてそれほど過酷な測量の旅を続けたのか

というのが、資料をどんなに読みこみ、想像を膨らませても

志の輔さんには腑に落ちなかった、ということだろうか。

いわゆる落語的なドラマに必須のままならぬ人生の哀感やら業=欲、が

人物像がはっきりしなくて、筋に込められず

伊能の出てこない(伊能の周囲の人のエピソードから浮かび上がる)伊能のお話し

というトリッキーな形式を取ることになった、と。

 

 

ただ。

世の中には、夢組とかなえ組がある、という言い方を聞いたことがある。

これがやりたい!ということに出あってしまい、それ以外の道が考えられずに

突き進むタイプの人と、そういう人の姿勢に共感して(巻き込まれて)それを支えたい

というタイプの人にわかれるのだ、と。

 

一度はあきらめた好きな道に(リスキーで保証のない道に)

妻子持ちで30近くで転身した志の輔さんは前者。

伊能は、これと決めた自分の道をというよりは、期待され定められた道を

選択の余地もなく淡々とでも力の限り歩んだ人だろう。

その中で幼いころにやりたかった道を

隠居後に始めることを楽しみにしていた、ということ。

人生の大部分を人の期待に添うことだけを考え、そこに心血を注ぎ人生をかけ

功なり遂げた後は、これで文句はでないでしょうと

幼いころに興味のあった「かなえたい夢」にむかって邁進する。

事情があってやむなく「かなえ組」。晩年にようやく「夢組」。

職業が自由に選べなかった身分制の時代、ということもあり。

 

 

とはいえ、人が何かを成すには時宜、頃合いというものがある。

優秀な頭脳を持ち、人心掌握も巧みだった伊能にしても

その気力体力ともに充実し、何かを成すには十分な年月を他のことに費やす。

妻に隠れて多忙な時間をやりくりし、書籍を乱読しながら

リタイア後を夢見て準備を怠らず、その功績から「余人をもって代えがたし」

と、なかなか引退を許されぬ。

残り時間を思い、千秋の思いでいたに違いない。

そして満を持して始めた学問の道は、アマチュアの歯の立つ世界ではなく

そのことに愕然としたにせよ、もっと若くにと思わなくもなかったにせよ

その中で、自分が何事かをなしうる道を周到に探し、後はわき目もふらずに邁進する。

いい年をして、大人げない。功成り遂げたのだからいいではないか、と

そんな声も聞こえてくる。確かに、うっとおしい老人でもあろう。

 

 

もともと、地球の大きさを知りたかったのは師の高橋であって

伊能ではない。

だから計算のための測量だったにせよ、その後も続けたのは

幕府から正確な地図をと「期待されたから」ではなかろうか。

この人は実務家としての才が大きく、だから最初から天文の道に進んだにしても

もしかしたら、同じように理論でなく実務のほうで功績をあげていたのかもしれない。

 

 

ともあれ、いつかは好きな道にと思い続けたあとの人生は

どういうわけか、それまでの人生の成果や能力をすべて注ぎ込んではじめて完遂する

そんな類の難事業で、これもまた、自分がやりたかったことでもあるにはあるが

「自分の心の底から沸きあがってくるもの」に動かされるというより

「人から期待され、求められたもの」のために働いたということなのだ。

 

 

それでも。

どんなに好きな道で、これ以外ない、と思い定めて進んだとしても。

人生それほど甘くもなく、ままならないことばかりだろう。

満足することもあれば、思い描いたものとははるかに離れた場所で

苦笑することも多いかもしれない。

そんななかで、ふと出会ったことや人、それに導かれて

気づけば大きな山を登っていた、そんなことだってある。

否、そういう偶然に導かれるようなことで、この世の中は

成り立っているものなのかもしれない。

 

 

 

そう考えれば、志の輔さんの「伊能忠敬物語」はまた違ったヴァージョンも

あるのかな、と。

少なくとも一番好きな道には進まなかった人には

(多くの人は子供のころなりたかった職業にはついていない)、

そういう話のほうが説得力があるんじゃないか、とか、ね。

 

 

そんなことを酷暑の夏につらつらと。考えている。

 

 

 

小説「大河への道」を読んで

志の輔さんの小説版「大河への道」を読む。

私自身、耳で聞く人というよりは、目で読む人の傾向が強いので

活字を追うことで、いろいろ改めて腑に落ちたことがある。

 

 

伊能忠敬の人となり、地球の大きさを実測と理論値から推計する

という目的を達した後も、どうしてそれほど過酷な測量の旅を続けたのか

というのが、資料をどんなに読みこみ、想像を膨らませても

志の輔さんには腑に落ちなかった、ということだろうか。

いわゆる落語的なドラマに必須のままならぬ人生の哀感やら業=欲、が

人物像がはっきりしなくて、筋に込められず

伊能の出てこない(伊能の周囲の人のエピソードから浮かび上がる)伊能のお話し

というトリッキーな形式を取ることになった、と。

 

 

ただ。

世の中には、夢組とかなえ組がある、という言い方を聞いたことがある。

これがやりたい!ということに出あってしまい、それ以外の道が考えられずに

突き進むタイプの人と、そういう人の姿勢に共感して(巻き込まれて)それを支えたい

というタイプの人にわかれるのだ、と。

 

一度はあきらめた好きな道に(リスキーで保証のない道に)

妻子をもちで30近くで転身した志の輔さんは前者。

伊能は、これと決めた自分の道をというよりは、期待され定められた道を

選択の余地もなく淡々とでも力の限り歩んだ人だろう。

その中で幼いころにやりたかった道を

隠居後に始めることを楽しみにしていた、ということ。

人生の大部分を人の期待に添うことだけを考え、そこに心血を注ぎ人生をかけ

功なり遂げた後は、これで文句はでないでしょうと

幼いころに興味のあった「かなえたい夢」にむかって邁進する。

事情があってやむなく「かなえ組」。晩年にようやく「夢組」。

職業が自由に選べなかった身分制の時代、ということもあり。

 

 

とはいえ、人が何かを成すには時宜、頃合いというものがある。

優秀な頭脳を持ち、人心掌握も巧みだった伊能にしても

その気力体力ともに充実し、何かを成すには十分な年月を他のことに費やす。

妻に隠れて多忙な時間をやりくりし、書籍を乱読しながら

リタイア後を夢見て準備を怠らず、その功績から「余人をもって代えがたし」

と、なかなか引退を許されぬ。

残り時間を思い、千秋の思いでいたに違いない。

そして満を持して始めた学問の道は、アマチュアの歯の立つ世界ではなく

そのことに愕然としたにせよ、もっと若くにと思わなくもなかったにせよ

その中で、自分が何事かをなしうる道を周到に探し、後はわき目もふらずに邁進する。

いい年をして、大人げない。功成り遂げたのだからいいではないか、と

そんな声も聞こえてくる。確かに、うっとおしい老人でもあろう。

 

 

もともと、地球の大きさを知りたかったのは師の高橋であって

伊能ではない。

だから計算のための測量だったにせよ、その後も続けたのは

幕府から正確な地図をと「期待されたから」ではなかろうか。

この人は実務家としての才が大きく、だから最初から天文の道に進んだにしても

もしかしたら、同じように理論でなく実務のほうで功績をあげていたのかもしれない。

 

 

ともあれ、いつかは好きな道にと思い続けたあとの人生は

どういうわけか、それまでの人生の成果や能力をすべて注ぎ込んではじめて完遂する

そんな類の難事業で、これもまた、自分がやりたかったことでもあるにはあるが

「自分の心の底から沸きあがってくるもの」に動かされるというより

「人から期待され、求められたもの」のために働いたということなのだ。

 

 

それでも。

どんなに好きな道で、これ以外ない、と思い定めて進んだとしても。

人生それほど甘くもなく、ままならないことばかりだろう。

満足することもあれば、思い描いたものとははるかに離れた場所で

苦笑することも多いかもしれない。

そんななかで、ふと出会ったことや人、それに導かれて

気づけば大きな山を登っていた、そんなことだってある。

否、そういう偶然に導かれるようなことで、この世の中は

成り立っているものなのかもしれない。

 

 

 

そう考えれば、志の輔さんの「伊能忠敬物語」はまた違ったヴァージョンも

あるのかな、と。

少なくとも一番好きな道には進まなかった人には

(多くの人は子供のころなりたかった職業にはついていない)、

そういう話のほうが説得力があるんじゃないか、とか、ね。

 

 

そんなことを酷暑の夏につらつらと。考えている。