「大規模言語モデルは新たな知能か」を読む

Chat GTPに関しては、雑誌の特集等でおおよそのことはわかるのだが。

 

 

山形浩生が、某経済誌の書評コーナーで、その概要の解説書として

取り上げおり、ほう、と思って手にする。

著者は、かのプリフェアード・ネットワークスの最高研究責任者。

この本自体、各所でChat GTPを活用したとのことだったが

時宜を得た、コンパクトな新書版。

 

 

難しい内容を実にわかりやすく、数式などは使わずに解説している。

時に哲学的な内容になりそうなものを、あっさり、合理的に。

よほど頭のよい、かつ言語能力が高い人なのかしらん、と思ったが

人工知能・言語処理の研究者で、そこを突っ込んで考えてきたということなのか。

 

 

それにしても。

なるほど、こういう言い方かと。

この先の指針、ガイド本のひとつになる、そう思って。

改めて熟読してみる。

 

 

 

 

喬太郎さんと扇辰さんの 

落語会に行く。

2人会ではなく、某有料放送で落語ネタをもとにドラマを作っており

その新シリーズにあわせて、元ネタを演じてもらうという趣旨の落語会らしく。

 

 

三遊亭二の吉:桃太郎

柳家喬太郎:紙入れ

入船亭扇辰:鰍沢

中入り

東出昌大柳家喬太郎トーク

柳家喬太郎:品川心中(上)

 

 

扇辰さんは、こんなあっちい頃に鰍沢は、といいつつ。

雪景色の見えるような寒さをきっちりと。

喬太郎さんはトークを含め相変わらず器用にこなす。

足を悪くして、とのことで釈台をおき、座布団によりかかれるようにしての高座。

扇辰さんとは同級生で、二人とも59歳、とのことだが

みかけは扇辰さんも、実年齢よりは少し枯れて見え、喬太郎さんもすっかりの白髪頭。

そうは見えないでしょう、などと。

紙入れも、品川心中も盤石の出来。

 

 

イベントのもとになるドラマは未見だが、落語とはかなり違うところもある様子。

ナレーションというのか、解説というのか、で出演中の喬太郎さんは

毎回「落語ではこうじゃありません」というらしいのだが。

 

 

ともあれ、落語会は盛況。

落語会の前に某博物館を訪ねたついでに参拝した神谷町の愛宕神社では、

大型台風の影響か湿気も高く、急に雨に降られたりで。

とはいえ、その後は雨にたたられず。

 

 

喬太郎さんも扇辰さんも好きな落語家さんだが

古典を演じてはずれはない。

落語会の多い朝日ホールならぬ、向かいのヒューリックホールでの公演で

あきらかに演劇向きのタッパの高い、間口の狭い劇場だったが

あまり気にならずに堪能した次第。

談春さんのこと

ここのところ、落語から、気がついたら遠ざかっている。

もともと狭い範囲を聞いてきて、あとはCDやら書籍やら。

聞きたいと思う高座も限られていて、しかも人気のある演者が多く

チケットがなかなかとれない上に、

先行だのプリセールだのも鬱陶しく

チケット獲得の努力もしていないから当然といえば当然だろうか。

 

 

その昔、まだ東京近郊での落語会が多かった頃には

談春さんの高座によく行った。

落語関連の記事も読みふけっていたので

どうやら人のやらない難しいネタが好きな様子が知れ

「九州吹き戻し」やら、米朝さんの「除夜の雪」など

(特に除夜の雪は、わかる人だけがわかる話が好きだ

と語っていた)

珍しい話をきくことも多かった。

 

 

もともと独演会で聞き応えのする、厚みのある大ネタを好んでかけていたが

ある時期から人情話にシフトし始めて「人情八百屋」「八五郎出世」などを

じっくり聞かせるようになっていく。

はずれない話を、よりわかりやすく、と技術を進化させてきたように思う。

 

 

その分、玄人受けするような話はあまり高座にかからない。

最近好きでよくやるという「御神酒徳利」も、

いかにも落語らしく適度に力が抜けていて、しかもいい人しか出てこない。

嫌な気持ちになることはまずなく、確実に笑い、感動できる。

 

などと考えていたのは、ちょうど宮部みゆきの変わり百物語のシリーズ

「魂手形」を読んでいたから。

今回はかなりぞわぞわして、そっと自分の背後を確かめるような。

物語の終盤の一節に、

ーー百物語を聞くという業を集めるようなことをしてーー

と、この世のものではない使者に告げられるシーンがある。

人が心の奥底に隠していた不思議な話や怪異を、

一度限りと語り捨てるこの百物語、まあ言ってみればホラーになるだろうか。

人の怨念や業、それが何かを呼び寄せて引き起こされる怪異や不思議。

あるいは怪異に人の思惑が絡んで起こる、一言では言い表せないなにか。

 

 

夏でもあり怪談話の季節でもある。

技巧を持ち、それを感じさせないほどの演者に

この話を口演してもらったら、さぞかし酷暑の晩もしのぎやすく・・

さて、そういう趣向が及ばないような酷暑ではあるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

継続するということ

歌舞伎界の名跡を継ぐ人物の降板の顛末を見ていて

考えるところがある。

 

 

若手の、それなりの実力のある俳優と、名跡の一門の若手が穴を埋め

彼らの頑張りと、おそらくは同情票も少しあって、大きな穴は空かずに

(そして好評のうちに)興業は続いているようだ。

 

 

抜けた穴は、どんなに大きくともそのうち代わりのものが出てきて

それなりに塞がり、そのうちになじむ。

そういうものとはいえ、忘れてはいけないのは

そもそも興業元がしっかりしていて、かつ厚みのある才能のプールがあるという

前提あってのこと、ということだろう。

穴を埋めるにも、その後やそのさらに後、が育っていなければ

無理矢理にでも別のポジションから人を持ってこなければならず

当然のことに、玉突き的に穴が空く。

 

 

いずれは世代交代をすることだから、興業のリスクヘッジからしても

ある程度の数の若手を育成しながらプールしていくことが必須になる。

フリーランスといえども、仕事によって人が育つ

(逆に言えばそれ以外では人は育たない)

ことから、組織としての人材管理は必要に違いない。

 

 

こうして考えてみると、自主公演で客を開拓するにせよ

興行元とは別の仕事を、芸能事務所に所属して開拓して幅を広げるにせよ

本業での地道な稽古や鍛錬をがあってこそのもの。

そして、それを積むには、諸先輩方の厳しい目にさらされる稽古をはじめ

お客さんの前での(ある程度の数をこなす)公演が

どうしても基礎になり、必要になる。

 

 

歌舞伎界は興行元が定期的に客を集めて、

年間かなりの数の公演が担保されている。

落語界では、寄席の定席がそれに当たるだろうし

クラシック業界では音楽事務所の企画公演や

(ちょっと意味合いは異なるが)プロオケの定期公演が

それに当たるのかもしれない。

興業に当たっては、それを支える(目先を変えたり演者を売り出したりする)

イベント性や企画性、年間での様々なバランスを担保する

プログラムを作るスタッフもまた必要なのはいうまでもない。

 

 

若手の育成だけでなく、中堅やその上にとっても

数をこなし、年間でも、ある程度見込みがたっている公演があることは

収入の点でも技術の鍛錬のためにも、

そして演者のモチベーションの維持や目標管理の上でも

とても大きなことになるのだろう。

そういった当たり前のことに、今回は気づかされる。

 

 

芸能や芸術を下支えするもの。

そういうものに。

 

地域寄席

地元の落語会に出かける。

老舗の焼き肉屋さんでやっている会の、文化ホール版となる。

長く続いている会で存在は知ってはいるが

どちらも行ったことがなかった。

 

 

三遊亭けろよん:出来心

春風亭かけ橋:かぼちゃ屋

三遊亭兼好厩火事

中入り

寒空はだか:漫談

立川志の春:不動坊

 

 

月曜の夜席だが、ほぼ埋まっている。

経歴もつけた案内が配られるのは、毎回演者がかわり

かならずしも目当てがいなくても聴く、という寄席形式ならでは。

 

 

けろよんさんは兼好さんのお弟子さんとのこと。

まだ基本に忠実で間合いもよい。きっちり笑いをとる。

かけ橋さんは、はじめは三三さんに入門、次に柳橋さんのところへ

うつり2つ目とのこと。仔細を聴いてみたい気もする。

さて、おじさんを渋くしようとしてか、独特のしかめっ面。

そこは好みが分かれるかも。

兼好さんは思い切りカリカチュアライズした嫉妬深いおかみさんを

これでもかという風に演じる。

いつもの明るくうまい高座とはちょっと毛色が違うが、これも新鮮。

 

 

中入りを挟んで寒空はだかさん。

年末の賑わい座でおなじみ。締めはお決まりの東京タワーの歌。

このマンネリ感と安心感がなかなか。

志の春さんはマクラで自身の近況を語りながら、不動坊。

この噺は、まだ若い頃の談春さんや花禄さんで何度も聞いた気がする。

やっぱり若い演じ手がいい噺なのかしらん。

長く独り身でいた男が意中の人とひょんなことで添うことになり

湯屋で嬉しさと期待で妄想が爆走するあたりが肝なんだろうが

うーん、こうして聞くと結構難しい噺なのかも。

勢いはあって悪くはないのだけれど、次回以降に期待、かな。

 

 

などなど、あれこれ考えながら堪能した会でした。

 

 

 

 

 

 

 

追悼 ジョー・ブライス

若冲を見いだしたことで知られるコレクターのジョー・ブライス氏が

なくなったというニュースを見る。

少し前に、コレクションの一部を出光美術館が購入し

一部を展覧していたので、いろいろ考えていたのかもしれない。

これだけのコレクションを、よくふさわしいところに引き取ってもらったものだ

と感じた。

個人コレクターであるにもかかわらず、作品の公開や若冲の再評価に

力を注いだことからも、幸せで志の高いコレクター人生だったと思われる。

 

 

はじめてブライス氏のコレクションをみたのは

もう随分前、都内での展覧会としか覚えていないが、

その展示方法は画期的で秀逸だった。

朝昼夕と光の変化を再現して、刻々と変わる光をあてられた障壁画や屏風の

見え方の違いがありありとわかるようなものだった。

 

 

日本画は生活に根ざした場所に描かれ飾られる。

日常の生活の中に置かれる作品として、絵師は変わりゆ季節や光を計算して

様々な工夫を凝らす。

作品だけを切り出して、美術館の展示室というホワイトキューブに展示し

一定の光のもとで見せることで失われるものがあることを初めて知る。

光が変わるたびに違う表情を見せ、その表情までも計算する絵師の技術を

この展覧会でつぶさに見ることが出来た。

 

 

日本画、と呼ばれるジャンルの作品の、光によって趣を変える美しさは

ほかに例を見ないともいえるかもしれない。

当時は、それを外国人に教えられるということにある種の感慨をもったことを

覚えている。

 

 

追悼記事を辻惟雄が書いている。

この人の「奇想の系譜」にも影響を受けたが

作家の評価、作品の評価というものはなかなか一筋縄ではいかない

という思いを新たにする。

西欧美術の文脈では、それまでの美術史が整理され、

その後の新しい技法やコンセプトが整理されて作家の評価が定まる、という

一定の方法が確立している。

それでも、この本の奇想の作家たちのように、

どの系譜にも属さないような作品に改めて光を当てる研究で、

美術史が一変することもある。

 

 

コレクターのあり方、作家の評価の仕方。

これを機に、じっくり考えてみようと思う。

 

 

談春さんの会

町田のホールにて談春さんの会。

時間がギリギリになることはわかっていたが

なんとか定刻前につき一安心。

都心からの微妙な距離を反映して開演時間が早い。

にもかからず、この人の会はいつも開口一番から自分でやるものだから、

不測の事態が起きると間に合わない。

席に着くと、出囃子は「不思議なポケット」

おや、めずらしく開口一番で、弟子のこはるさんを出すのか、と。

 

 

こはる:真田小僧

談春トーク、百川

中入り

談春:蒟蒻問答

 

 

配られたチラシにも全10公演のこはる改め小春志(こしゅんじ)の

真打ち披露興行がはいっており、まあ、ちょっとしたお披露目と宣伝を

させた、ということなのだろう。

達者な真田小僧。勢いがあって悪くない。

 

さっさと下がれ、というように出囃子を流して

早々に師匠が登場。

渡した持ち時間をオーバーしたのかな、というくらいせっかちな出だったが、

開口一番の時間を取り戻すかのような長いマクラ。

今日やる噺がない、などといいながら、自身の小田原での会が

入りがもう一つなので、という宣伝も。

ここでは御神酒徳利をやるとのこと。

その後、百川。

中入り後は、蒟蒻問答。

 

盤石の出来。

この人らしく、弟子のことを言外に褒めるような絶妙な言い方をしていたことが

印象的。

 

 

披露興行は、弟子の会だけに独演会でしか勝負しないこの人としては

どうなのかしらん、などと思いながら。

小田原か披露興行か、どちらか聞きに行こうかしらと思案中。