カポーティ「クリスマスの思い出」と志の輔さんの会

トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出」を読む。

某新聞のコラムで、年の離れた(祖母と孫くらいの)バディもの

という紹介に惹かれたのだが、内容は予想したものとは大分違っていた。

 

 

凝った装丁と挿絵の本である。

短編なのに、この一編しかはいっておらず、独立した一冊になっている。

2ページごとにきれいな色の銅版画の挿絵(よく見たら山本容子作だった)

が額縁に入れられた絵のように、小さめにページにはめ込まれている。

紙の質感も版画に見合った手触りと厚さで、趣味がいい。

切れのよい文章、作家自身が愛し、よく自作の朗読に選び

そして多くの聴衆の涙を誘ったという作品世界に見合った装丁で

おそらくは多くの小説愛好家にも愛された小品にふさわしいものを、と

やはりこの作品を愛する出版社なり編集者が作ったのだろう。

 

 

解説の村上春樹の文章も、簡潔で過不足なく作品の魅力を伝え、

ページにもはかったようにきっちりと収まっている。

作家への敬意と作品への愛にあふれ、それすらもこの本の大切な一部なのだろう。

 

 

イノセント・ストーリーと呼ぶしかない作品、と村上春樹は紹介しているが

誰もが子供の頃には持っていて、大人になり世間知を得てからは失われる、

美しい一時の思い出そのもの、とでもいうべきもの。

60歳になってもまるで童女のような主人公の年の離れたいとこと

まだ幼い主人公の少年、彼らの愛犬とで紡ぎ出される、

クリスマス前の恒例の準備とクリスマスを淡々と描く、

ただそれだけの短い作品なのだが。

 

 

さて。

この本を読んでいる頃に志の輔さんの会に出かける。

昼間は春の陽気で暖かかったのに、夕方からぽつりぽつりと降り始め

開演時間にめがけて横殴りの雨に変わる。

駅から会場までの10分の間に、びっくりするほとぬれてしまい

そういうときに限って、薄いハンカチしかバックにはいっていない。

 

 

志のぽん:真田小僧

志の輔:だくだく

中入り

志の輔:紺屋高尾

 

 

「だくだく」の前に長いマクラがあり

本人が後で語ったところによると、もう1席やるつもりが時間がなくなった

とのこと。

下げをオリジナルにした「だくだく」は、なぜか北海道大学の入試問題になった

のだそうな。試験問題を作成をした人物は志の輔ファンだったのかしらん。

紺屋高尾は久々に聞いたが、これこそ、イノセント・ストーリーかもしれず。

 

 

大人の常識や世間知、損得勘定ではとてもこんなことはできない・・

そして志の輔さんも、お金を作っていざ吉原に行く前の久蔵に、案内役の医者に

「たぶん(ほぼ絶対に)高尾には会えないよ。でもおまえさんの納得のために

 いくんだ、それでもいいかい? 高尾に会えなかったからといって

 私や親方を恨んでもらっちゃ困るよ」と念押しさせる。

 

 

そんな風に大人の世界の常識をもう一度描いて見せて、

だからこそ、3年の間、脇目も振らずに働いてお金を貯めて

会えるかどうかわからない(むしろ会えない確率の方が高い)花魁に

会いに行く、という無茶と、その純な思いに花魁が涙して報いてくれる

というシンデレラストーリー(この場合は男性なのでシンデレラというのも変だが)

が感動するものになるわけなのだが。

 

 

ただの小説、ただの落語に落涙する、というのも

あまりないことだが。

イノセントな頃はとうに過ぎ去ったとしても。

それはそれで、いいものだな、と。

 

 

 

 

 

 

寒波のなかで

電気代も値上がりし物価も30年ぶりにあがり

コロナからの大回復で景気がよくなる頃合いだが

生活実感としては冷え込んでいる。

ウクライナの紛争からまもなく1年になり

こちらも問題解決の兆しは見えてこない。

それどころか米国に続き欧州も武器供与を始めるなど

経済封鎖だけでない方向に進んでいる。

 

 

イーロン・マスクが買収したツイッターでは

言論の自由を守るという旗印の下に

フェイクニュースを流す多くのアカウントが凍結解除されて

それはそれで混乱を呼んでいるとのこと。

いろいろなことが複雑化し、一筋縄ではいかず、変化は早く

そして混沌とするばかりのように思える。

 

 

一方で自身のささやかな日常生活はなんとか平穏を保っている。

無事是好日、と小さな楽しみを大切にして、ひっそりと暮らす

それがコロナ以降、常態化してきている。

 

 

年明けに、久々に談春さんの会にでかける。

小学校にはいってすぐに越してきて談志さんへの弟子入り前までを過ごした

土地ということで、この市のPR大使になるという話でひとしきり。

NHK大河ドラマに出演するため乗馬の稽古にいった話、

そしてお弟子さんのこはるさんが、小春志(こしゅんしと読むそうな)

として真打ち昇進し、秋に都内のホールで豪華なゲストを呼んで披露会をする

という話などを。

 

 

そういうことなら前座でほんの少し、ご挨拶がわりに出してあげればいいのに

と思わなくもないが、そういうものでもない、ということか。

こはるさんは、早くから実力派といわれていて、ファンもついているようで

二つ目とはいえ、そこそこの会場を満席にしてきた。

もうあとは淡々と前に進むだけだろう。

真打ち昇進の話を一度断った、というのか即答で受けなかったことで

師匠の怒りに触れて、しばらく謹慎させられていたこともある。

名前に大師匠の一字を入れて期することもあるのだろう。

師匠はぼそりと名前負けだともいっていたが。

ようやく春がきたということか。おめでたい話である。

 

 

談春:粗忽の使者

中入り

談春:妾馬

 

 

新年の会だったので最後は三本締め。

市のPR大使を頼まれた、という割には危ないマクラが多く

そいうこともこの人らしい、ということか。

いわんとするところはわかるけれど、話していた教育論には

少し首をかしげたのだが・・

 

 

寒さはまだしばらく。

日差しはすこしずつ明るくなってきていて

それだけは、季節のせいというだけなのだが

なんだかほかのことも少しずつ雪解けにならないかと。

 

 

そんなことを考えつつ。

 

 

 

 

 

 

大竹伸朗展

1ヶ月ほど前になるが、竹橋の近代美術館にて

大竹伸朗展を見る。

都現美の展覧会から16年ほどたっている、ということで

そんなになるのか、と。

あのときは「全景」というタイトル通り、すべての作品を総覧する内容。

作品数は膨大で図録の作成が遅れたのも当然ではないかと思ったものだ。

某コラムニストが入り口と出口で人数をカウントしないと

会場内で行き倒れている人がいるのでは、といっていたのが

的確すぎて笑ってしまったことを思い出す。

 

今回も、作品数はそこまで多くはないものの過去の秀作が総覧できる内容で

行きつ戻りつしながら、あっという間に2時間近くがすぎる。

会場ではNHKの8Kで放送された作品制作のドキュメントをやっていたが

会場の通路脇に場所に丸椅子が少し並んでいるだけで、

しかも上演時間が1時間以上。

すっかり疲れていた身には立ち見はつらく、全部見れないまま会場をあとにした。

 

 

知り合いから、DVDに落として送ろうか、などといわれていたのだが

NHKのBSでようやく先日放送があり、じっくり見る。

 

 

80年代、新時代の旗手のようにもてはやされていたにもかかわらず

経済的には長く全くの不遇だったことなどを知る。

村上隆奈良美智の作品がオークションで高値をつけたのも

2000年代半ばからだったか、と思い至る。

現代美術の今の隆盛に上書きされてしまっていたが、

そういえば90年代に入っても、現代美術は数少ない人たちの関心しか

集めておらず、昨今のブームは、世界的な金余りの中で

美術作品も投資の対象になった、ということでもあり。

 

 

宇和島に行ってから、大竹氏の作品がまた新たな展開をみせたことは

興味深く拝見していた。

地理的な異文化(ロンドンやナイロビのゴミに触発された初期の作品)

だけでなく、時間的な異文化(過去=昭和の遺品である宇和島のゴミを

重要なモチーフにした作品)などによっても、この人の作品はできあがるようで

そこに網膜シリーズのような新たな手法が組み合わさっていく。

そんなことが新作制作のドキュメンタリーでうかがい知れる。

 

 

今回の展覧会では新作はこの作品のみで

過去作品を集めた特装本や、ちょっとしたガジェットのはいった

限定部数の画集などが近作とし出品されていたが

平面作品などはなかったように思う。

(なにしろ、出品目録もQRコードで見るのみであとから見返すことが

 できなかった。なにかやりようはあるのだろうが)

最近は作品を作っていないのか、近作は海外で売れてしまったのか

などと考えていたが、あの制作方法をみるとそうそう作品をつくれない

ということもよくわかる。

そこからするとむしろ、20-30代の制作ペースがすさまじかった

ということなのかもしれない。

愚直に妥協なく、自分の目指すところを突き進んできた。

80年代にはじめて作品を見た衝撃と、その後の作品の変遷と

それをもう一度じっくり見ることができた。

 

 

なんだか圧倒される。当時と変わらずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉広町緑地と

某テレビ番組で鎌倉の都市林として地元の人しか知らない

鎌倉広町緑地が紹介されており友人とともに訪ねる。

サザンオールスターズ原由子さんが他の湘南の魅力とともに紹介していたが

ここはガイドブックには全く載っておらず、

湘南鎌倉にはまあまあ詳しいはずの自分も全く聞いたことがなかった。

緑地とはいえ、広大な敷地の中にほぼそのままの形で残っている森

(というよりちょっとした山)で

高低差のある土地柄、登りもあり下りもあり、で森林コースとなっている。

 

 

見晴らしスポットからはお約束の富士山が見え、

海側からは湘南の海もちらりと見える。

バードウォッチングにもよいが、歩いているとすぐそこの木の枝に

2,3匹のリスがいて、驚いて足を止めることもある。

コンパクトに短い時間で海も山も堪能できるのが湘南鎌倉の魅力だが

それがぎゅっと圧縮されているような場所だった。

開発される際の、周辺の住民の反対運動が実り、

市が買い上げて、市民からの寄付やボランティアの人手、市の委託費で

きれいに整備されている。

話を聞くと、駐車場はなく自動販売機もおかず、と声高にはいわないが

なるべく自然のままに、というコンセプトは徹底しているようだ

地元民が気軽に犬をつれて散歩に来るほか、

季節ごとに里山らしいちょっとしたワークショップがあるなど

そういう意味でも民度の高い鎌倉らしい場所なのかもしれない

と感じる。

 

 

ほんの1時間ほどで、軽い山歩きをしたような気分になるコースを歩いたあとは

そこは西鎌倉なので街中でこじゃれたランチをいただく。

ゆっくりしたあとはモノレール(独特の揺れが楽しい)で江ノ島にでて

冬の海というにはかなり暖かい海岸でしばし遊ぶ。

この贅沢さ、ゆったりさ加減、気持ちが解放される満足度の高さ。

 

 

サザンオールスターズがメジャーデビューしたあと

湘南鎌倉をテーマに曲を作る、と決めたという話しなどを思いだしながら

40年間トップを走り続け、ヒット曲を出し続けることのすごさを

改めて思う。

そしてこのコンパクトながら名所旧跡の多い自然に恵まれた場所を思う。

 

 

さて、最近爆笑したタローマンの話しはまた後日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リウーを待ちながら を読む

たまたま手にして、一気読みの後も何回か読み返している。

コロナの騒ぎが無くとも、読みごたえがあるとして

強く印象に残っただろう。

感染症との闘いは、日々の闘いに負け続ける中で、

人として人に対して誠実であろうとする

とんでもなく大変なことなのだ、ということが門外漢の人間にも知れる。

あまりにも予見的で、それが恐ろしくもあるが

感染症が蔓延したら、おそらくたどる経過と取れる手段は

限られており、それがこのようなものだ、ということになろうか。

 

 

コロナ以降、あるいは、ウクライナ紛争以降

世界は、人間は進歩していき、らせん状にせよ過去よりはよくなっていく、

という楽観的な未来がどうにも、決定的に信じにくくなった。

あまりに性急に答えを求めることも、対処すべきことに

なにもかも捨てて注力することも、燃え尽きるだけになり

得策ではない、という。

 

 

自分がコントロールできることとできないことを見極めよ、とか、

しぶとくあきらめずに、なんとか続ける、続けることを日常にということなのか。

持続可能な、絶望に慣れないでいる方法。

 

 

カミユの「ペスト」を、今更だけど私も読んでみようと思う。

 

 

 

 

リウーを待ちながら を読む

たまたま手にして、一気読みの後も何回か読み返している。

コロナの騒ぎが無くとも、読みごたえがあるとして

強く印象に残っただろう。

感染症との闘いは、日々の闘いに負け続ける中で、

人として人に対して誠実であろうとする

とんでもなく大変なことなのだ、ということが門外漢の人間にも知れる。

あまりにも予見的で、それが恐ろしくもあるが

感染症が蔓延したら、おそらくたどる経過と取れる手段は

限られており、それがこのようなものだ、ということになろうか。

 

 

コロナ以降、あるいは、ウクライナ紛争以降

世界は、人間は進歩していき、らせん状にせよ過去よりはよくなっていく、

という楽観的な未来がどうにも、決定的に信じにくくなった。

あまりに性急に答えを求めることも、対処すべきことに

なにもかも捨てて注力することも、燃え尽きるだけになり

得策ではない、という。

 

 

自分がコントロールできることとできないことを見極めよ、とか、

しぶとくあきらめずに、なんとか続ける、続けることを日常にということなのか。

持続可能な、絶望に慣れないでいる方法。

 

 

カミユの「ペスト」を、今更だけど私も読んでみようと思う。

 

 

 

 

あさのあつこ「バッテリー」

映画化だか映像化だかされて、主人公の名前を呼ぶ

その合い方の男の子の高い声をなんだか覚えている。

見たわけではない、なにか予告編とか、短い時間見ただけなのだか。

声のトーンだったか言い方が、好きではなかった。

 

 

読み始めて、面白い。

2巻目から全巻固めて手元に置いたら

ああ、まずいなあ、このまま完徹してでも読み終わるまで止まらない

パターンか、と。

さすがに夜更かしは止めているので、それはしないのだが

読み終わるまでは他のことへの注意力が多少低下する。

頭のある一定領域を常に使用している感じ。よろしくない。

昔から本を読み始めると時間が蒸発する。周囲の物事が消える。

とはいえ、早々に、相当面白い本に限る、とはなったのだけれど。

(まあ、生きていくためには必要だろう)

 

 

やれやれ。

いくつになっても、出会うことはある。

そういえば数年前に「精霊の守り人たち」を読んだ時もそうだった。

それが楽しくもあり面倒でもあり。

しばらく、この作者の作品含めて読む本には困らないだろう。

読書の秋、も近いことだし、ね。