数少ない落語を聞く知り合いに
志の輔さんの、夏の恒例、牡丹灯籠があまり・・・という話を聞く。
もちろん、がっかりする内容ではなかったのだろうが
テレビの有料放送ではじめて聞いた時のインパクトはなくなっていた
などということなどよもやまと。
新作はいいんですよ、といわれて、確かに古典より新作に
重きを置く人らしいのは本人も語っているとおり。
でも何度も聞いて楽しめるのが古典落語、というより
落語という芸能の特徴だとするなら、飽きてしまう噺と言うのは
落語としては確実に、なにか大切なものを失っている。
以前見たACTの中村仲蔵も、再演の知らせはきているけれど
正直心は動かない。
もう一度あの解説を聞かされると思うと
2部から聞けばいいと思うし、とするとなんだか損した気分だし。
もちろん、その時気づかなかったこともあるだろうし
改めて本編をきくまえに、解説があったほうがそれは理解は
たやすくはなるけれど。
なんだか、聞く人のことを慮っているようでいて
意外と浅慮のような、そんな気がしてきて。
おりしも雑誌文藝の別冊で談志特集があり
志の輔さんと談春さんの対談を読む。
その中で今の立川流の落語が演劇に近いというくだりがあって
おやと思う。
巷に、人気を博する芸はどこか掟破りをしているものだ
というものがあるが、その掟やぶりは、やはり時分の花でしかなく。
徒花のように時を経て移ろうもの、
そうなのかしらと。