今月号の文芸春秋にロバートキャンベルさんと有働由美子さんの対談が載っている。
キャンベルさんの、井上陽水の歌詞の英訳は一頃話題になったらしい。
時制、人称、何を何がといったかかりが曖昧で、それゆえに余白や広がりのある
”蜃気楼のような”歌詞が特徴の井上陽水の文体と
英語版で読んでも日本語版で読んでも、ほぼ同じところで同じ思いを喚起される
本を閉じるとどちらの言語で読んでいたかわからなくなるほどに明快で
かつ、わかりやすい軽快な文体の村上春樹。
前者の文体が、いわゆる多義的でゆらゆらとする日本文学の特徴的な
ものでもあったのだが。
そして、それゆえ村上春樹の出現は、画期的でもあったのだが。
翻って、この間からつらつら考えている落語版「高瀬舟」のことなど。
落語家がこの作品をと思い定めて口演する場合
やってみたかった、その話に惹かれた理由があるはずなのだが
強欲への牽制(反省?)、といったものになるだろうか。
もともとのこの短編小説は、いまだに主題に議論があるらしく多義的なものなのだが、
今回はある1点に焦点を絞って口演し、聞いた後の印象もそちらに集約されていく。
そもそも志の輔さんの高座は、およそいつ聞いても出来不出来にばらつきがない。
私が聞きはじめたのは比較的最近で、当人の技術・気力ともに充実しきってから。
だからでもあるのだろうが、いつ聞いても結構な出来であり、
師匠の談志さんに好不調の波があったことと対照的に
なにか聞いていてひっかかるほどの不完全なものを聞いたことがない。
(以前はほんのときおり、心情を描写しすぎて、んんん、と思うことも
あったにしても=だから高座が延びがちだったようだが、
最近はそういったこともなく、口演にはかなり速さがある)
だから文句のつけようはないのだ。
日本の伝統芸能や武芸といった型のあるものはおしなべて
正確に型をなぞれば誰でも同じものになりそうなものだが、
そうではなく、そこにこそ個性がにじみ出るものであるらしい。
同じ花材を使った生け花にせよ、同じ型の点前にせよ
あるいは型どおりの剣道やら柔道の稽古にせよ
その人の本質のようなものがにじみ出るものであり。
だからこそ、落語の世界でも「ニンにあう」という言い方もあるようなのだが。
他の所属の演者と比べると(以前は特に)圧倒的にわかりやすく現代的な口跡だった。
以前談春さんが、「(自分の落語のような)こんなにわかりやすい落語を
聞いしまうと」云々といっていたことがあるが、ぎりぎり違和感がでない範囲で
現代の言葉で組み立てる口演だったのだ、と思う。
そして話は「高瀬舟」に戻る。
お客さんは志の輔さんの口演を聞きにくるのだから
志の輔さんの解釈、むしろこの「高瀬舟」を借りての表現、であるから
なにやら評論めいたことを言わなくてもいいような気もするのだが。
まだまとまりがつかない。
やっぱりもう少し、考えてみないと、ね。