志の輔さんの「大河への道」のことで

志の輔さんの「大河への道」が難渋したのは

談志さんの名言でもある「落語とは(人間の)業の肯定である」

という言葉に体現されている。

 

 

落語の主人公というのが、ちょっとずるをしたり

安易に人まねをして失敗したり、というのがお約束のキャラクターで。

あるいは。

いい腕や才覚を持ちながら好きなものにのめり込んで身を持ち崩す

堅物で通っているのに魔がさして、冷静ならしないとんでもないことを

やらかしてしまったりと。

人間臭い間違いや、道を踏み外す人のドラマをえがくものが多い。

談志さんは「赤穂浪士の討ち入りを描くのが歌舞伎や講談なら

その前に、怖くなって逃げだした”討ち入りに行かなかった人”の

ドラマを描くのが落語だ」という。

立志伝中の人物は、なかなか落語になりにくい。ということか。

 

 

志の輔さんの新作落語の大作は、1か月のロングランをする

パルコ公演でできあがるものが多いらしいのだが

屋台崩しや映像など、ちょっと演劇的な演出がはいる。

(大河への道でも最後に日本の海岸線のわかる空撮映像がつく)

これが、どうも好きではない。

(「大河への道」以外、みてはいないのだが)

それゆえにか、あるいはチケットがそもそもとれないからか

いまだにパルコでの志の輔さんの会には足を運んではいない。

 

 

江戸前落語には、下座の音楽がほんの少しはいるだけで

あとは演者の話芸、ただそれだけで表現する、その潔さが好きだから

ということなのだろうか。

 

 

とはいえ、同じ演目を1か月やり続けるということは

お客さんの前で反応を見ながら、噺を1か月間練り続ける、

ということでもあり、新作落語の場合は脚本兼演出兼演者は

口演のたびに修正を繰り返すことになる。

これが噺の出来栄えに大きく貢献することは想像に難くない。

 

 

回数を重ねれば、それも客席の反応があれば、

演劇やミュージカルをはじめライブパフォーマンスの完成度は上がる。

現実に古典落語は長年の聴衆の選別に耐えて

時々で時代に合わせてアレンジされながら生き残ってきたために

なまじの新作落語よりはるかに強度がある。

そう考えると、落語にはなかなかできないロングランが

いかに志の輔さんの新作の創作に役に立っているかということだろう。

 

 

 

そもそも落語会でロングランというと

よほどの動員力がないと成立しないのだし。

 

 

ある程度の動員力があっても、ゲストとネタを毎日変えて

2週間程度、というやり方をする人はいるだろうか。

演者にしても毎日同じ演目、それも大作を掛け続けるには体力・気力以外に

新作が練り上げられていく、などの産物がなければ

テンションも保ちにくいのかもしれないのだが・・・。

 

 

私は、といえば、その創作の過程に立ち会いたいというよりは、

そうやって洗われ磨かれてすっかり骨格がしっかりしてきた噺を

ほんの少しのマクラと話芸だけで、しめしめと鑑賞する方が好きである。

 

 

それゆえか、同様の効果を得ることになっている

下北沢での「牡丹灯籠」や赤坂での「中村仲蔵

(どちらも長い噺の全編や背景の解説が1幕分となる)は

どちらも一度は拝見したものの、あまり食指が動かない。

 

 

たとえばパルコが改修中に

「今まで全国からお客さんに来ていただいたので、次は私が

全国に出かけていって」とパルコでやるような番組を全国で

やったときのように。

大仕掛けな演出やら映像の投影をわざわざやれない地方の小屋で

同様のインパクトのある噺を、話芸だけで見せてくれる会、というのが。

 

 

これが醍醐味、これが聴けたら本当にありがたい、というものだろうと。

あまり人にはいわないけれど。