落語配信を聞いて
何人かの落語家さんが高座の配信をはじめている。
いまだに通勤をしている身としては、その時間に間に合わないことのほうが多いのだが
アーカイブになってるものは、この連休中にぽつりぽつりと拝見している。
一之輔さんの10日間連続のライブ配信は、リアルタイムに聞けたのは2日くらいだが
アーカイブを、家の片づけの合い間に時間をつくって見ることにしている。
落語というのは不思議な芸能で
アーカイブを聞いていても
(とりわけ、今回の一之輔さんの高座はマクラが長いせいか)
たとえばラジオのように、とてもパーソナルな(個人的な)体験として
自分に語りかけてもらっているような親密な空間が現れる。
10日間連続というのは、寄席のトリを取る予定がこのコロナで中止になり
なんだか物足りなくなって同じようにしゃべることにした
ということらしいのだが。
贔屓がトリをとる際に、その10日間、寄席に通い続けるというと
その昔、寄席が各町内にあった時代の、寄席の全盛期にはできたのかもしれないが
今となっては(そして都心に住んでいない身としては)あまり現実的ではない。
そこからすると、毎日聞くわけではないにしても
1席ずつ、マクラも入れて1時間ほどの高座を10日間なりなんなり聞き続けるのは
とても親密な体験になる、という気がする。
短い間に数多く話をする、というのが人と親しくなる条件だとすると
これは悪くはない体験だ。
おそらくコロナのせいで、しばらくは、いままでのように密集して
公演を聞くことはできなくなるだろう。
その際に、ペイしない、という事態を回避するために
配信、というのは切り札になっていく気がしている。
日ごとに目まぐるしく状況が変わり
誰もが必死に明日の糧を考えていくような世の中になったが
そのなかで努力して適応をさぐるものの中の一握りが
次の時代を切り開く。
ピンチではなくチャンス、といい切れはしないものの。
新しい可能性は、ある、と思っている。
たしかに、この先の、どこかに。