志の輔らくご「牡丹灯籠」

志の輔さんの、今年でもう7回目だという夏の下北沢の恒例行事。
一度聞くともういい、と思う人がいるのか切符が取れて、でかける。



上演時間を確認せず、着物で行ったのは最大の敗因。
本編の後半は尻・腰が痛く、ほとんど集中できない。


とはいえ、一部の段を口演するのが普通のこの長編を
これだけ上手に編集して物語の全貌を伝えるのを目のあたりにすると
志の輔さんのある種の情熱と考えを感じる。


そのあたりは、赤坂ACTシアターでの大忠臣蔵と様子が違うように思う。
赤坂では、長い段を前半に芝居絵を使って1時間解説するのだが
どうしても落語ではないためテンポが落ちてだれる、
(あるいは圓朝のダイジェストを下敷きにしていないからか)
「解説」というかお勉強の要素が勝る。
わかりやすくはあるけれど、所詮は中村中蔵のための教養講座の前座、
一度聞けばもういいと思うところがあったが。


この牡丹灯籠はもう少し違う、」
落語の口演を、ものすごく集約し編集しているからなのか・・
これを聴いて、赤坂の口演の意味合いも、
私は少し誤解していたのかなと感じたことからすると。


お露のお伴の米は、志の輔さんの声で語ると随分な年寄りに聞こえるが
それでも、クライマックスのせりふの本当に怖いことといったら。


30時間の本編を、その本質を損なわずになんとか1回の高座で聞かせる、
これはそういう超人的な仕事。
寄席に毎日通う、ということのなくなった今の時代に合わせて、
10分の一の時間で、でも作品世界のすべてを味わってもらおうという
なんとも欲張りな挑戦。


さて、次はもう少しリラックスできる格好で
じっくりと聴きに行かなくちゃ。


次に聴く時までに、今回の口演をもう少し反芻して。
なにしろ、もぞもぞと生あくびをかみ殺した後半は、もったいなかったなあ。
上演時間はちゃんとチェックしなくちゃ、と思いを新たに。

ゼロ・グラビティ

テレビの放送で見る。

大画面で見たら吸いこまれそうで

その分、圧倒的な孤独や無力感、死への恐怖に襲われそうな

映像の美しさ、完璧さ。


とはいえ、CGなのかな。


人間、ひとりで向き合い、解決しなければならないことは

誰だって、ある。

そこをなんとか乗り越えた先には

もう一度生きる、という希望が待っている。


それを。

圧倒的な迫力と映像と

一人の女優の演技力で見せる映画。


途中までを伴走するパイロットが

彼女にサバイバルを教え

結果的に自分を救う強さを教えることになる。


そうね、どんな助言より

身にしみるから。

人にも薦める、かな。

カリスマの引退を見届けにセブンアイの株主総会にいく

見届けるつもりの株主が多数、と踏んだのか

会場入り口には多くのカメラと取材陣。

入る直前にコメントを求められた。


それを断って会場入り。

例年配られていた試供品はない、と

会場のあちこちに記載されている。

それ目当ての株主はきていないということだろう。


会見は、それまで報道されていた

どろどろした内紛とは打って変わり

淡々と議事が進む。

通り一遍にも聞こえる、想定通りの回答。


とはいえ、株主からの質問とそれに対する答えから

いくつかの事象が推察されて興味深い。

カリスマ経営者の鈴木氏に比べれば

新任の井阪氏はまだまだ頼りない、

フランチャイズセブンイレブンからすれば

株主、消費者の他にオーナーというステークホルダーがいて

この人たちの信頼は一朝一夕には得られない

しかし、この人らは、一度本社の方針が決まれば

それを信じついてゆくしかない、一蓮托生の子会社。


カリスマ、鈴木氏の人気と信頼、なしてきた偉業は、

質問する人の言葉の端々からも知れる。


カリスマの後を継ぐ。

それがどういうことなのか、それを見に行ったのだ

とそこで知れる。

糸井重里のインタビューの 編集

もう30年以上前の糸井重里のインタビューで

彼の答えた言葉が印象に残っている。


どんなに抽象的なことを聞いても

核心をはずさずに答えてくる

それは何故だ、と問われて。


僕はその問いを発した人が悪意か善意かだけを考える。

どんなに言葉尻がきつくても、わかりにくくても

善意だと思えば一生懸命その人の求めている回答を考える。

でも悪意ならば・・と。


さて、その先はどうだったか、と。

葛の葉 異類婚姻譚

明治座に花形歌舞伎を見に行く。

夜の部を体調不良で見逃し、昼の部を取りなおしてのリベンジ。

メインの演目は・・・ちょっと辛い。

幕開けの「葛の葉」がコクーンで1月に見た「元禄港歌」のもとに

なっており、七之助の女房・葛の葉も哀切で心にせまる。


物の怪なり異類なりが女の側の場合は

子には特殊能力が宿るのか、それなりの成功談になるようなのだが

異類に人身御供として差し出されたりする話は

女性の側に嫌悪感があるのか、悲劇的な結末が多い。

鏡花の「海神別荘」にしても、そこを逃げ出した姫は

里では蛇の姿にしかなれず、親兄弟、友人にも認識してもらえずに

失意のまま別荘に帰る。

そこで許されて元のさやに納まるとは言え、

望んだ人生ではないだろう。


葛の葉の白狐にしても、愛する夫と息子をおいて

信太の森に帰るのだし、息子の成長を陰ながら見守るしかない日陰の身の上。

その親子の情愛をえがく後日談が「元禄港歌」でもあるのだ。


落語の「お若 伊の助」はもっと悲惨で

これをどう今の世の女性に向けて変えたところで

受け入れがたいし、嫌悪感以外の感情をもたれはしまい。

身分違いで、引き裂かれた男を慕う思いに

化け物が引き寄せられよりいっそうの悲劇を生んだ、ということは

哀れにしても共感できる要素はなにひとつない。


異類はまれびと、外人のメタファーであるにせよ

もう少し救いのある物語にならないものか。

「おおかみこどものあめとゆき」はまだましにしても

それほどハッピーなものではない。

共同体の枠を超えるものを内在すれば

その者たちは、どうしたって通常の枠を超え

なにかの不全感や不安を抱え、虐げられたり、逆に異能ゆえの権力をもつ

異界の人として生きざるをえない。


まれびと、そのまれびととかかわることになった里の人。

己の運命を受け入れられるかどうかで

その後の運命が枝分かれしていく気がする。


だとしたら「お若 伊の助」はこのままでいいのかもしれず

もっと後の世に、後日談のようなまた違う物語が生まれるのかもしれず。


それならそれで、その物語を聞いてみたい気がする。

あるいは。

書いてみたい気がする。

桜の花の色

雨のあとで水を含んでいるからなのか

芽吹いた葉の緑が遠目にはまじるからか

あの吹雪に例えられるソメイヨシノの薄い色合いが、

今日はもうかすかに濁って見える。


それが、何かに絡め取られて身動きできない間に

もっともピュアな色の一瞬を見逃して

間に合ったと思った時には、すでに別のものに変わってしまった

そのことの象徴のようにも思えて、とても切ない。


風雨に晒されることなく

まだ開いたばかりのやわらかい花弁の

いっさいの濁りのない花色のときに

すこしであれ愛でる時間があればよかったものを。


取り返しのつかないこと。

壊れてしまい決して元に戻らぬこと。

そのことをただ、静かに花の色の違いとして

感じているような。

日差しの下では、もっと残酷に違う色に見えると知って

明日はせめて晴れずにいてくれろと、願うばかり。