ゴジラ-1.0  勝てる場所を探す

ゴジラの新作映画を特撮オタクの友人たちと見に行く。

大変面白く、また狙い所のよさに感銘を受けた。

戦後すぐの日本という時代設定にしたことで「勝った」という感じ。

非常によくできた収まりのいい映画だと思う。

 

 

シンゴジラ」の大成功の後では

これ以上、現代の設定のままでは何が必要かと悩むところだろう。

かつての名作、人気のシリーズを現代に置き換えたら、という設定では

シンゴジラ」以上には、しばらくはならない。

シンゴジラ」の成功後、60年代の特撮ものが同様のコンセプトで追随したのだが、

ゴジラほど成功したケースはなかったように思う。

 

 

戦後すぐ、という設定のうまさは

戦中の生き残り=戦闘経験者、実戦経験者がまだおり、戦えるということ。

それは作戦立案、機材の整備、操舵、機銃掃射といった技術の集大成でもある

(短期作戦なので補給は考慮されていない)。

戦争で丸裸になり政府は無力、アメリカはソ連との地理的な近さを憂慮し

手を出さない、とお膳立てがそろう。

そこに戦争中にゴジラ(まだ小さいので逆にリアリティがあり怖いという説あり)

に遭遇し、何も出来ずに仲間を皆殺しにされたという負い目を持つ主人公が

大切な人をゴジラによる厄災で失い、残された子供を守ろうとすることで、

決死の覚悟を初めて持つという設定。

せっかく生きて帰ったのだから、作戦への参加を強制はしないという戦後民主主義

それは、死ににいくのではない、国を守り生きて帰ろうという

あのときの新しい時代の価値観を、多少理想的にせよ、象徴するものでもある。

 

 

なるほどなあ、と。感銘しきり。

細かい点では、ゴジラの熱戦照射の後の爆風を受けたヒロインが

あの程度の怪我で生き延びられるはずはないだろう、とか

(ビル倒壊の爆風下をビルの陰に隠れて生き残った9.11の実例を

もとにしているのか、主人公が生き延びるのには説得力があった)

その直後に降った黒い雨を浴びたら、おそらく原爆症白血病に苦しむはずだ

などという突っ込みどころはあるにせよ。

 

 

伝統あるシリーズものの新作、という難しさに対する

教科書的によく出来た映画だったと思う。

ゴジラファンには納得のオマージュも随所にあったという。

映画の金字塔に対するリスペクトと愛にもあふれていた、ということか。

なかなかたいしたものだ、とあれこれ納得する。

 

 

 

 

 

 

 

女流落語家、という業

談春さんのお弟子さんの子春志さんが襲名披露の興行中。

きちんとした、古式ゆかしき襲名披露は国立演芸場で済ませており

こちらは本当の意味でのお披露目、披露興行。

ゲストも師匠の人脈を生かして豪華、恵まれたスタート、というところ。

 

 

ネタ出ししている新真打ちの演目とゲスト、

それに自分の都合を考え合わせるとどこを選ぶか、なかなか難しいが、

そもそも売り出しの時点で、ご贔屓筋で売り切れている日もあり。

もたもたしている間に、チケットは手に入らず、で。

 

 

師匠のファンサイトにアップされた

真打ちの認定証のような揮毫の文言を見て

また、随分ハードルの高いことを、と眺める。

 

 

「女性に共感を得る芸を望む」とあるが

なかなかどうして、これは大変な難題かも、と。

こはる改め子春志さんは師匠譲りの男前の古典落語が身上。

着物も男物の着流し(正装は黒紋付の羽織、袴)、髪もショートカットで

声質も、おそらくは地声とはほど遠く、壁に向かってどなるように発声して鍛えた

とのことで、およそ高座姿からは女性性は排除されている。

啖呵も、師匠の芸風からすると当たり前だが、これも一丁前で、

まあ、男前、と意識することもないほど男前の芸風である。

 

 

女流落語家は、女性の視点を生かした創作落語などで個性を出す人も多い中

この人は、ある意味、潔さが際立っており、振り切ったそれが個性でもあった。

古典落語では、その登場人物の女性は、男の理想の女性を表すといった風情で

現代の女性がそれほど共感できる登場人物は本来はいない、と思っている。

もちろん、人の情、子や係累とのかかわりなどには普遍的なものはあろう。

昭和の世代にとっては、夫唱婦随も当然の時代でもあった。

 

 

現在と比べて人権意識がどうこうと、そこまで言うつもりもないのだが

現代からすれば、あきらかに理解しずらい部分も(女性性にかかわらず)

あれこれと。

 

 

古典落語も時代に応じて変ってはいくのだろうが

その根幹にあるもの、奇しくも大師匠の談志さんの言った

「落語とは人間の業の肯定」というもの、

それ以前に男視点の物語、という構造は厳然としてある、わけで。

 

 

また、随分と高いハードルを、と思いつつ。

披露興業というご祝儀相場が落ち着いた後で

師匠の宿題をどうするのか、じっくり聞きに行こうと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天高く、・・

長く暑かった夏が終わり、

ようやく爽やかで空の高い季節になった。

爽やかな空気に反し、ウクライナの紛争が終わるどころか

パレスチナでも紛争が始まり、拡大しないようにと

祈るばかりでもある。

 

 

しばらく、ドラマにはまっていた。

今までも秀作の海外ドラマや、時々は地上波のドラマに

それなりに感心することもあったのだから、さして珍しくもない。

 

 

登場人物たちの多くがトラウマを抱えている、と評した友人もいたが

ミステリかサスペンスのように、過去の出来事が少しずつ明かされる。

どこか懐かしい雰囲気の主題歌(70年代の洋楽のヒット曲)にのせて、

若い日の切なさや懐かしさ、そして大きな傷となる出来事が

モノクロームの回想シーンで描かれていく。

 

 

どんなやりきれない展開が、と思って見ていたのだが

過去と対峙し、いま、ここに視線を向け、自分を変えていくという

妙に前向きのメッセージとともに大団円。それはそれで驚く。

それこそ、ヒロインの言う

「何があってもみんな無事、誰も死なないハッピーな世界線があったらいい」。

そこでは、傷を抱えながら自分の望むものに近づくための努力をし

いくつかを失い、いくつかを手にする。

 

 

時には疑わざるを得ない、そういう当たり前の。

いいこともそうでないこともある、そんな世界で。

いまさらなのか、いまさらだから、なのか。

びっくりするほど素直なハッピーエンド。

 

 

何度か最終話を見返して。

 

 

さて、あなたは何を望むの。

そう問いかけられた気がして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言語の本質」今井むつみ・秋田喜美 を読む

「言語の本質」は話題になっていて気にはなっていた。

乳幼児がどうやって日本語を獲得するか、

ほとんど無意識に使いこなすレベルまで到達するのか、という考察から始まり、

タイトル通り言語の本質に迫る内容で興味深く読んだ。

 

 

とりわけ、記号接地問題との兼ね合いで、今流行のチャットGPTなど生成AIを

論じた部分があり、その部分のインタビューがフォーカスされるていたのも

興味を惹かれる理由のひとつでもある。

 

 

著者の見解は明確で

知識から知識へ(記号接地せずに)漂流しながらも生成AIは拡大化し続けるが

人間ではそうはいかない、ということだろうか。

(出版社のインタビューでは記号接地しない以上、生成AIは

「中国人の部屋」の問題を解消していないと述べているが)

人間は言語の獲得において、その意味を記号接地する部分を土台として

爆発的に、抽象的な概念を含む言語の体系を獲得していく、という。

その際には、多くの推論と間違い、その修正の課程を必要とするのだが・・。

 

 

人間の知性とAIの知性は異なる、というのは

「大規模言語モデルは新たな知能か」でも論じられていたことだが

この著者と、見解は異なっている。

 

 

いずれにせよ、これからの1年か2年か

その期間はわからないが

ある程度の、それぞれの特性のメカニズムは整理されていくように思える。

身体を持たない、故に記号接地をしないAIの知性。

その知性と人間の知性との棲み分け、あるいは分業や協働の仕方について。

 

 

私もあれこれ考えてみようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

牡丹灯籠

談春さんと三三さんの牡丹灯籠を、

友人にチケットあるよと声をかけてもらいでかける。

リレー形式での牡丹灯籠で、高座前のトークによると

談春さん曰く、2人の声のトーンが似ているからとのこと。

例によって、あちこち脱線するトークだが

三三さんは切り返し含めてトークが随分上手になっている。

名古屋や九州ですでに同じ会をやっているために

少しだけ、いつもの遠慮がなくなってきたのか、あるいは

ここまでは踏み込んでも大丈夫というラインがわかってきたのか。

堅いだけだったのが見違えるよう。

 

 

 

ごあいさつ:談春 三三

宮戸川:三三

お露と新三郎~三崎村まで:談春

中入り

三崎村からお札はがし~お米談判まで:三三

粗忽の使者:談春

ごあいさつ:談春 三三

 

 

口開けの三三さんの宮戸川、これは前半まで。

(わざわざ(上)とは入れないと見える)

雷が鳴ってお花が半七にしがみつくあたりから、官能小説風に終わるのだが

これから怪談話が始まるのに、ちょっと妙な空気感。

客席をこれからはじまる話とは質の違う笑いで

まずは暖めておく、というのと、結果としてちょっと違ったような。

 

 

談春さんの高座。

新三郎の美丈夫さゆえに二人の運命が狂い始め

それがこの時代の身分制などにもからんで悲劇に至るというあたりは

丁寧に語られる。

人相見の叔父も、お露と新三郎は前の世から・・と因縁話めいて語ることで

お露の念の強さと2人の縁の深さを醸す。

ただ、円朝話によくある因縁が続き長講になるという展開かと思うと

ここはそうではない。そう考えるとこのくだりはちょっと誤解を招くかしらん。

 

そして、三崎村で真新しい墓を見つけるところで切れるはずが

うっかりその正体を語ってしまい、袖に向かって

この前までだったか、というような声をかける。

 

 

中入り後、三三さんのパート。

まずはマクラで、

本編が始まると「実はその墓はお露とお米の墓で」と

そこからぐうっとお客さんが引き込まれていくはずだったのに、と

この前段の「語りすぎた」顛末を解説。愚痴って笑いをとる。

するとそこに陰アナがはいり、談春さんが謝る、

またそれを三三さんが、高座にマイクを入れられたのははじめて

と、くさして笑いをとる。

 

 

本編では三三さんのお露が存外怖い。

美人が無表情、フラットな声で「新三郎さんに会うの」と繰り返すのは

尋常ではなく、いかにも生半可でない一念がありそうで。

ただ、ネタ出しのお札はがしのお米の談判まではいかずに

お札があり中に2人の幽霊が入れない、というところで切れる。

 

 

談春さんは粗忽の使者で締め。

緊張感のある怪談話の長講で、正直疲れてくる頃合いなので

爆笑できる滑稽話は助かる。カタルシスもあり、で。

 

 

最後のトークを含め、目指す3時間にぴったりとのことだったが

うーん、トークはいいからお札はがしのさわりが聞きたかったわ、と。

3回にわけての通し公演で、しかもリレー形式。

2人の演者にそれぞれ見せ場を、かつ上演時間も制限がと考えると

切れ場をどこにするか判断するのも大変なのだろう。

三三さんは、次回2回目でお札はがしを一気にやるとのこと。

まあ、切れ場としてはそうなのだろうが、

3回通しではなく、1回だけ聞いても大丈夫と筋書きを売っているのだし

1回しかチケットをとれていない人からすると

ここまでは聞きたかったなあ、などと。

後日、同じ会場にいた知人からも同様の感想。

 

 

牡丹灯籠というと、一般人の持つイメージとしては

そして、怪談話としてのハイライトは

牡丹の花のついた艶やかな灯籠を持ち、お露が下駄をならしてお盆の入りに

夜道をやってくるところ、

2人の仮住まいの三崎村を探し回るもみつけられず

帰りがけに通った寺の墓所で何か気になってふっと見やると

真新しい墓に牡丹の灯籠が置かれていて、やがて2人の墓だと知れるところ。

幽霊と気づいた新三郎が、高僧にもらったお札と如来像で守りを固め

幽霊が中には入れないとわかり、心変わりをしたと歯ぎしりするところ

そしてお札はがしのくだり、となろうか。

 

 

その先は、幽霊談と言うよりはむしろ悪事に手を染め

何食わぬ顔をして成功する人間がさらに転落する有様に

別の意味で怖くなる、ということで、話の質感は違ってくる。

(殺されたお峰が、女中に取り憑いて悪事をうわごとで語るくだりはあるが)

怪談話の肝は人間の怖さではなく、その念が引き起こす怪異なのだから。

 

 

まだ早い時間に舞台がはねたので同行の友人とともに軽く飲みに出かけ、

それこそいろいろな話をしながら、案外長く、楽しく過ごす。

公演前に出かけた銀座のギャラリーの石内都展も素敵なライティングで

(照明で、組み写真のような展示を構成していて)

こちらも新鮮だった。

 

 

フルに楽しめた、秋というにはまだ暑すぎる休日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スーパームーンとブルームーン

地球と月が近くなるためにいつもより大きく見える月をスーパームーン

月のうちの2度目の満月をブルームーンと呼ぶらしい。

正確に言うと、スーパームーンは年のうちで最も大きく見える1回だけを

いうらしいのだが。

いつもより気持ち大きく見える満月を見たのは、翌日の夜

まだ浅い時間。

煌々と輝く大きめの満月はなかなかにきれい。

満月の頃はツキがあるのだけれど、今回は何かあるかな、と。

 

 

落語番組で、たい平さんが「幾代餅」をかけていた。

テンポがいい、というよりかなり走り気味で、

そういえば、この番組は本人の短い解説と出囃子含めて30分の尺。

話に割ける時間は、正味25分ちょっとである。

志ん朝師匠の「幾代餅」を聴いて、師匠のお弟子さんに教えていただいたもの

という。

テンポのよさは先の制約のせいもあるだろうが志ん朝さんの噺が

そもそもテンポよく進めるからだろう。

さて、聞いたことがあったかしらと記憶をたぐるが、あまり記憶にない。

悪くはないが、もう少し溜める場面があってもいいような。

 

 

先日、談春さんと三三さんとの会のチケットがあるが行かないか

と友人に声をかけてもらい出かける。

銀座界隈は久しぶりだったのでギャラリーを2軒ほどまわり

開園時間前に有楽町に戻る。

 

 

かなりの長時間になったその会での話は、後日改めて。

 

 

 

 

 

 

「大規模言語モデルは新たな知能か」を読む

Chat GTPに関しては、雑誌の特集等でおおよそのことはわかるのだが。

 

 

山形浩生が、某経済誌の書評コーナーで、その概要の解説書として

取り上げおり、ほう、と思って手にする。

著者は、かのプリフェアード・ネットワークスの最高研究責任者。

この本自体、各所でChat GTPを活用したとのことだったが

時宜を得た、コンパクトな新書版。

 

 

難しい内容を実にわかりやすく、数式などは使わずに解説している。

時に哲学的な内容になりそうなものを、あっさり、合理的に。

よほど頭のよい、かつ言語能力が高い人なのかしらん、と思ったが

人工知能・言語処理の研究者で、そこを突っ込んで考えてきたということなのか。

 

 

それにしても。

なるほど、こういう言い方かと。

この先の指針、ガイド本のひとつになる、そう思って。

改めて熟読してみる。