夏の終わりにジュブナイル小説を

永遠に、この記録的な暑さが続くように思われたのが嘘のように

まるでこのまま秋になるかのような気配の今日この頃。

朝晩が涼しいのは本当に助かる。

日差し自体が凶器のようで、日が落ちるのを待って外出していたことを思えば

ありがたい限りだ。

そんな折、夏休みの宿題のラストスパートみたいに、

少年少女向けの本(ジュブナイル)を固めて読んでいる。

 

 

子どもから大人になる思春期に

この世の中で生きていくための大切な何かを誰かのもとで学ぶ

いつもと違う場所での出会いや体験、旅立ち、

そういった風情の物語ばかりを。

 

 

 

それに加えて、夢組とかなえ組の言葉を聞いたセミナーで教えててもらった種本。

これも今頃になって。

当時は、他人の欲に振り回されることに心底うんざりしたあとだったので

どうしても読む気がしなかったのだが、予想していたものとはずいぶん違っていた。

これを読むと、世の中に出ていく若い時だけでなく

誰と一緒に、どんなことを選びとっていくか、そんなことは

生涯続く旅のようなものだ、と思えてくる。

ライフサイクルに応じて選ぶものも違ってくるだろうし

一度選んだものがちょっと違ってきたということもあるかもしれない。

 

 

 

旅、にちなんで、また少し伊能忠敬のことを考えていた。

志の輔さんの小説版「大河への道」には伊能は無念だったのでは

という脚本家のフレーズが出てくる。

でも、これにはあまり納得がいかなかった。

日本地図を完成させることだけが望みなら、あれほど時間をかけて

内陸部までの測量をしたのかな、ということと

なにより、彼のような実務家は仕事のやり方が工房方式というかチーム制で

自分がいなくてもある程度回るように作られていただろうから、ということ。

(それでもなんでも自分でやらないと気がすまなかったようではあるが)

それに加えて、何代か続く地元の名士に婿養子としてはいったことから

「継承する」ということがきちんとわかっていたのでは、という気がしたから。

一説に、何代も続く名家では、当主は自分の代で財産を減らすわけにいかない

という(一代で財を築いた富裕層とは違う)プレッシャーにさらされる、という。

その家の長い歴史を紐解きながら自分の役割を考えるだろうし、

オーナー社長とはいえ、家業も財産も預かりもので、できれば大きくはしたいが

いずれはなるべくいい形で次世代に継承するものだと考える。

そのための組織作りやら、後継者を育てることなどなど、そこは周到に

抜かりなく、それも大切な務めだと信じて。

そういう人だったら、困難の予想される(そして専門家としての自負のある)

測量をまずはきっちりすべて終える。

地図の作成は(自分が生きているうちに)間に合わなければ後に託す、

そのくらいは考えていたのでは、と。

なにしろはじめたのが高齢だったこともある。残り時間は考えていただろう。

そりゃあ、地図は成果物だから完成させたかっただろうけれど、

名誉も賞賛も、その時には既に得てはいたのだから。

 

 

周到に次代に託した佐原の家は、後継者の息子が自分より早くに亡くなる

という不幸にも見舞われる。

でももうバトンは渡してしまって、自分の手を離れたら

それはもう、それだけのことだろう。

名経営者といわれた人が、後継指名して会長に退いて

うまく行かないからと社長に返り咲く(代表権を再度持つ)こともあるが

そういうのはねえ、などと思いつつ。

 

 

まだ残っている「課題図書」を、

酷暑の和らいだこの機会に、せっせと読むことにする。