大河への道

志の輔さんのにぎわい座の会。

この会は寄席形式で色物が入り、お弟子さんが出て

ご本人はそこそこの噺をする。

なので聞きたかった「大河への道」はあきらめていたのだが。


中入り後、釈台が出ていて

まさか大忠臣蔵でもあるまいしといぶかっていたところ

まくらから伊能忠敬の話になることが知れる。


志の大:狸の賽

志の輔:買い物ぶぎ(新作)

母心:漫才

中入り

志の輔:大河への道(新作)


前座の志の大さん、落ち着いて噺を始めあぶなげがないが

冒頭で自分の名前を言い忘れる。

前座はめくりに名前が出ないから、まずはじめに自分の名前を

いわなければならないのだが・・・

もっとも最近は、終演後にその日のネタと演者を張りだすうえに

それを携帯のカメラで取る人が多いから、いい忘れてもいいのだけれど。


母心は志の輔さんの会で何度か拝見している。

今回は着物の芸ではなく、落語をもじった漫才で

正直あまり感心しない。


買い物ぶぎは初めて聴く噺だが、着眼点をずらすことで

日常の風景をシュールに見せる新作。


そして大河への道。

大河って大河ドラマのことだったのね、と。

伊能忠敬の生涯を大河ドラマにしてPRしようとした千葉県の役人の

会話から始まり、

千葉偉人伊能忠敬の話を書き上げたシナリオライターの到着が

明日の知事以下内部会議でのプレゼンを前に遅れているらしことが知れる。

と、古典落語風の展開を期待していた身には肩透かし気味の内容。


とはいえ、伊能忠敬の生涯が「なぜシナリオが書けなかったのか」という

作家の苦悩と並行するように語られてゆきぐいぐい引き込まれる。


聞き終わって、なるほどと思う一方で

さて、志の輔さんの落語にときおり感じるうーん、という思いも

同時にこみ上げる。

メディアとしての落語の範疇を少し逸脱しているところが、なのか。


師匠談志さんは志の輔落語を文句なし、と認めたわけでもあるし

古典落語も申し分ない。

牡丹灯籠や中村仲蔵を、前半を解説だけにしてほぼ一演目で

 独演会にするのは、やっぱり落語としてはどうかな、とは思うものの)


そしてつらつら思いを巡らす中で、やはりこの人は談志さんの弟子、

既存のものにあきたらず、作っては壊し、完成してもあきたらず。

見え方は違うにせよ・・・


以前聞いたときは、もっと長い噺でしたよ、と同行の友人がつぶやく。

これでも刈りこんだのか・・・

立派なばかりの偉人の生涯は、失敗を繰り返す愚かな人間を描く落語には

向かず、むしろそれは講談向きのネタ(だから完成せずに苦労した)。

という解説から、この噺がその苦労をなぞるようにして完成したこと

よくわかるのではあるが。


このしっくりしないところを、

自分でもじっくりと考えてみようか、と思いつつ。