桃太郎を今の世に語るには

こんなことは童話研究会にいたという三遊亭白鳥さんも

その他この手の昔語りをしている人たちには自明のことなのだろうけれど。

 

三遊亭円朝が、誰かに禅の公案のように謎かけをされて

そこから開眼した、という逸話があるそうだ。

 

 

ある話をいま円朝が語るとしたらどうなる、そういわれた、その話が「桃太郎」。

これを聞いたときはすっかり、そういう落語があるのだと思っていた。

 

桃太郎は、あちこちに少しずつ違うヴァージョンがあり

とりわけ戦中の戦意高揚のためにだいぶそれっぽく改変されている、と聞いた。

鬼=外敵、敵国というわかりやすい図式になるらしい。

いわれてみれば、妙に勇ましい話ではある、

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征伐、という歌の言葉が示しているとおりに。

 

 

のほほんとしていると、あれよあれよと言う間に憲法まで改正されて

また戦争が始められる国になりそうなこの頃、

桃太郎を語るとしたら、かなりきな臭い話になりそうだ。

そう考えると、昔話というものも形を変え、細部を変え、意味を変えて

その時代、その時代の、きな臭さやら、エッジの効いた何かやら、先走った気分、

(季節感なんぞというやわなものとは別の)時代の空気、生臭さをもっていたのかもしれない。

恩師が、今の日本の進む先を嘆いている。

その意味を今頃になって、勉強が追いついて慄然としている。

 

桃太郎、そのかわいらしい歌や挿絵の姿とは裏腹な

うちにひそんだ危うさが、警告する未来もあるのかと。

それをいま、ひっそりと考えている